鳥なき島より

読み返したコミックスについて思うところなど

あるいは犬っころの歌――『レベティコ―雑草の歌』

 先日、『レベティコ』出版記念オンラインイベントに参加した(同作については、かつて短い感想を書いた。当時は英語版で読んだが、このたびクラウドファンディングが成功し、日本語訳が出版されたのである。めでたい)。

greenfunding.jp

 メインプログラムは作者のダヴィッド・プリュドム氏と翻訳者の原正人氏によるトークで、これが滅法面白かった。そしてとりわけ興味を惹かれたのは、プリュドム氏の「この作品を映画化しないかというオファーがあったけどお断りした」という発言であった。「映画化されると普通に音楽が流れてしまう。音楽を読者の想像力に委ねるのがこの作品の面白いところだから」と。
 氏の発言が興味深かったのは、それが『レベティコ』の構成上の特徴について私の考えていたことを補強してくれるものに思えたからである。

物語と断絶

 『レベティコ』の構成上の特徴とは何か。一言でいってしまえば、それは「断絶」である。
 『レベティコ』の概要は下記のとおりである。

 第二次世界大戦前夜の1936年、軍人上がりのイオアニス・メタクサスが首相に就任し、ギリシャファシズムへの道をまっしぐらに進んでいた。当時ギリシャアテネでは、レベティコという音楽が流行していた。レベティコのミュージシャンたちが歌ったのは、自らが属す下層階級の人々の生きづらい日常。それが下層階級の人々から熱烈に受け入れられた。一方、当局にとっては、定職につかず、ハシシを常習し、喧嘩に明け暮れ、犯罪まがいのことに手を染めることもいとわず、昼はぶらぶら過ごし、夜な夜なバーで演奏してひと騒動起こすレベティコのミュージシャンたちは、風紀を乱す社会のお荷物以外の何ものでもなかった。
 主人公のスタヴロスもそんなミュージシャンのひとり。彼は仲間たちとグループを組み、自由気ままな生活を送っていた。グループのリーダー、マルコスが半年ぶりに刑務所から出所したその日、スタヴロスと仲間たちは再会を祝い、久しぶりのセッションを楽しみ、乱痴気騒ぎを繰り広げる――。戦争が間近に迫り、自由がまさに失われようとする窮屈な時代に、あくまで我を通し続けた愛すべき人物たちの長い一日の物語。

   http://thousandsofbooks.jp/project/rebetiko/

 

 「愛すべき人物たちの長い一日の物語」。それは間違ってはいないのだが、本作は厳密には二部構成となっており、その第一部が1936年10月の「長い一日の物語」なのである。そして第二部は、名付けるならば「犬っころのモノローグ」である。

 第一部の流れは、レベティコのミュージシャン、スタヴロスを主人公として、彼が目を覚まし、刑務所から出所するマルコスを迎えに行き、仲間たちと演奏を行い、眠りにつく――といったものだ。そのなかで、アメリカでコロムビア・レコードのプロデューサーを務める男が彼らをスカウトしに来る。渡米しないか、あるいはレコードを作ってアメリカで売らないかと。スタヴロスらはその誘いを蹴る。最終的に、スタヴロスの仲間のなかで「犬っころ」だけがプロデューサーのもとを訪ねる。

 そして第二部が、その犬っころのモノローグである。時代は、第一部の20~30年ほど後だろうか。第一部がその冒頭で「1936年10月/アテネ」と日時と場所を明示しているのに対して、第二部にそうした説明はない。犬っころの年老いた姿が描かれる。彼がいささか上品なクラブでレベティコを演奏しながら、「あの晩のことをよく思い出す」と独白する。あの晩とは、第一部で描かれた日の晩を指す。彼は続けて、外の世界を見てきたこと、検閲を避けるために甘ったるい内容の楽曲を演奏していたこと、いつのまにか流行が変わり規制も緩和され、今ではむき出しの言葉で歌っていること、それを聞いているのは生まれのいい連中だということ――等々を語る。独白は徐々に怨嗟と化していく。

 100頁ちょっとある本作のうち、第二部が占める分量はわずか4頁である。物語自体はスタヴロスを主人公とした第一部で完結しているように思える。また、第一部が犬っころ自身の回想であるならともかく、そうではない(第一部の中心人物はスタヴロスだし、明らかに犬っころが見聞きしていないはずの場面も多く描かれている)。第一部と第二部の間には大きな断絶がある。

 この断絶に思いを巡らせたとき、スタヴロスらミュージシャン仲間のうち、犬っころとそれ以外のメンバーとの間にある断絶に改めて目が向かうはずだ。
 象徴的なのはその名前である。犬っころ以外のメンバーは、スタヴロス、マルコス、バティス、アルテミスという名前を与えられているが、犬っころには通称しか与えられていない。そして、彼以外のメンバーには特定のモデルが存在することが作者によって明かされている。
 犬っころだけがプロデューサーのもとを訪ね、外の世界を見たことはすでに述べた。

 彼とスタヴロスらの断絶が第二部を導いたのである。

 また、本作には作者による「まえがき」と「あとがき」がある。私はそれほど多くのバンド・デシネを読んできたわけではないが、作品にまえがきやあとがきを付す慣例は絶対的なものではないはずだ。これもひとつの断絶として意識しておきたい。まえがきでは本作の舞台設定や時代背景の解説が、そしてあとがきではスタヴロスらのモデルとなった実在のミュージシャン達の消息が語られている。

殉教と伝道

 スタヴロスらが音楽プロデューサーによるレコード制作の申し出を断ったのはなぜか。
 プロデューサーは言う。「多くのレベテースが録音を続けているじゃないですか」。マルコスが、それは独裁者メタクサスの検閲をすり抜けられるような「甘ったるいヤツだけ」だと答える。「オレたちの周りにいる港の男どもを見てみろよ/ヤツらはここに来てオレたちが歌う真実に酔う/オレたちの人生はつながっているのさ…」。
 また、すでにレコード制作の経験があるマルコスは、蓄音機から自分の歌声が流れるのを聞いた時、「まるでオレの声が…/盗まれた気がした」。プロデューサーは言う。「マルコスさん この渦は歴史の必然です/私たちは録音の世紀を生きています/これまで音楽とは消え去るものでした…」「だが今後は何も失われはしない…」。マルコスは答える。「ヤギの腹をさばくのと一緒さ/どうなるか わかるか?」。バティスが続ける。「二度と元通りにはならねえ…」。
 バティスはこうも言う。「オレたちのレコードは彫像のようなもんだ…」「石棺のようなもんだ…」「音なんて誰が買う?/要は風だぜ/売れやしねえ!」「消えちまうんだから!」。

 レコード化によって、ヴァルター・ベンヤミンが言うところの「アウラ」がなくなる。煎じ詰めればそういうことだろう。

いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。

  『複製技術時代の芸術作品』ベンヤミン

 

 しかし犬っころはひとり、プロデューサーの元を訪れた。レコードを作り、歌い続けた。複製技術の力を借りて外の世界にレベティコを届けたのである。
 「朝 起きたことを夜に歌う」スタヴロスらはレベティコの、そのアウラの殉教者であり、犬っころは複製技術に奉仕したレベティコの伝道者であると言えよう。

 そうであるならば、犬っころのモノローグによって幕を下ろすという本作の構成の意味がわかるような気がする。

 レベティコという音楽は、1936年のギリシャで、その時代、その土地において無二の火花を発していた。第一部はそれを読者に追体験させ、犬っころと第二部に象徴される断絶が、第一部で奏でられたレベティコの、一曲一曲の一回性を強調する。その輝きは、失われたがゆえに我々読者の想像力によってますます眩くなるのである。
 また、第二部が時代と場所を明示していないことにも意味があると私は考えたい。犬っころのモノローグは一体、いつ、どこで行われたものなのか。それは、読者が本作を読んだその時、その場所で行われているのだ、と。

あるいは犬っころの歌

 名前のない伝道者、犬っころ。複製技術の力を用いてレベティコを広めた男。作中の断絶を象徴する人物。実在のミュージシャンの中にモデルを持たない存在。
彼は、バンド・デシネという出版物によって我々の胸裏にレベティコを想像/創造させ、「まえがき」と「あとがき」で本編がすでに失われてしまった時間と場所で奏でられた音楽を描いたと強調している者――すなわちダヴィッド・プリュドムその人ではないだろうか。
 このように考えたとき、『レベティコ――雑草の歌』という作品自体を、あるいは「犬っころの歌」と言い換えることが可能なのではないだろうか。

 映画化のオファーを断ったとプリュドム氏が語ったとき、私はそんなことを思ったのである。しかし氏は、「もしすごく有名な映画監督からオファーが来たらちょっと考えてもいいんだけどね」と続けたのだった。
 それはやめてほしい。

2017年ベスト10

 2017年に読んだ海外コミックス(未訳)のベスト10です。今年最初で最後のエントリになります。どうしましょ。


10. Walter Simonson, Louise Simonson, Jon J. Muth, Kent Williams, Havok & Wolverine: 
Meltdown Vol.1~4 (Marvel Comics, 19881989) 

Havok and Wolverine: Meltdown #1 (of 4)

Havok and Wolverine: Meltdown #1 (of 4)

 

  ウルヴァリンとハボックがダブル主演するミニシリーズ。Epicレーベルから発表された作品で、ストーリーはあってないようなものですが、アーティストもダブル主演というのがミソ。ウルヴァリンパートをケント・ウィリアムズが、ハボックパートをジョン・J・ミュースが担当しています。水彩をメインとした2人のアートはまぁ眼福。日本のAmazonだとKindle版しか出ませんが、是非紙で読んでいただきたい。ミュースの担当パートで、ハボックがジェームズ・ディーンに、そして本作の鍵を握るキャラクター、ニュートロン博士がマルセル・デュシャンそっくりなのも楽しい。

 

9. Asaf Hanuka, The Realist (Archaia, 2015) 

The Realist

The Realist

 

  イスラエルイラストレーター/コミックアーティストであるアサフ・ハヌカによるエッセイ風フィクション(あるいはフィクション風エッセイ)。「Comic Street」にレビューを書かせていただいたので、詳細はそちらで……

 ハヌカと言えば、絶版だったPizzeria Kamikazeの新装版が2018年3月に出るので要チェックです。エトガル・ケレットと組んだ作品ですね。楽しみ。

 

8. Pablo Auladell, Paradise Lost: A Graphic Novel (Jonathan Cape, 2016) 

Paradise Lost

Paradise Lost

 

   スペイン人イラストレーター/コミックアーティストであるパブロ・アウラデルによる『失楽園』のコミック・アダプテーション。ミルトンの原作を四部に再構成し、サタンががっつり主役になっています(テキストは割と原作に忠実)。神、天使、悪魔、そして原罪を背負う前の人間といった、言ってしまえば人ならざる異形達のオンパレードで楽しい。アダムとイヴが知恵の実を食べてお互いをなじりあう場面の人間臭さ(というかメロドラマ感)と、それ以前のキャラクター達の異形っぷりとのギャップが凄まじいのは原作と同じですが、表情や目の表現から、ビジュアルの力の強さを痛感させられました。青を基調とした画面が、異形達のある種の冷やかさを見事に描きだしています。アートの質はコミックスというよりイラストレーションのそれで、制作期間が長かったことからスタイルの変遷も楽しめます。お得ですね。

 

7. Dave McKean, Pictures That Tick Volume 2 (Dark Horse Books, 2014) 

Pictures That Tick Volume 2

Pictures That Tick Volume 2

 

  デイブ・マッキーンの短篇集第2弾。第1弾もそうでしたけど、マッキーンの短篇集はアートもストーリーも多彩で、もうお祭りですよ。本作では、冒頭のSky Womanと末尾のTsichtinako, the Spider Womanが白眉。どちらも創世神話で、しかもマッキーンの長篇Cagesに組み込まれているとか。そ、そうだったっけ。読み返さなきゃ……

 あと、マッキーンはBlack Dog: The Dreams of Paul Nash (Dark Horse Originals, 2016)も面白かったです。

 

6. Emily Carroll, Through the Woods (Faber & Faber, 2015) 

Through the Woods

Through the Woods

 

  Webを中心に精力的に作品を発表しているエミリー・キャロルのホラー短篇集。正直、こういうデフォルメの効いたカートゥーン系(と言っていいのかな?)の絵柄はあまり得意じゃないんですけど、ひたすら面白かった。おとぎ話のような世界で語られる、ノスタルジックな夜の恐ろしさ。この絵柄だからこそ怖い。そういう作品が目白押しで新鮮でした。

 

5. Joe Daly, Scrublands (Fantagraphics, 2006) 

Scrublands

Scrublands

 

  ロンドン生まれケープタウン育ちのジョー・デイリーによる短篇集。カラーもモノクロも、幻想も風刺も、ダウナーもアッパーもあるといった具合です。アニメーションの勉強をしていたとのことで絵はすこぶるうまいし、スタイルのバリエーションも豊富。大雑把に言えば、ロバート・クラムとかダニエル・クロウズとか、いわゆるオルタナ系に分類されてもおかしくないアートなんですけど、何かが違う。妙な明るさがあるんですね。スタイルにも内容にも。アフリカ的マジックリアリズムって感じでしょうか。エイモス・チュツオーラみたいな。あるいは水木しげる的な南の感性というか。脱力というより関節が外れている、みたいな。その強烈な違和感が面白かった。

 デイリー作品では長篇Highbone Theater (Fantagraphics, 2016)も読みましたが、9・11が主要なモチーフになっていて、これまた一筋縄ではいかない怪作でした。

 

4. Rutu Modan, The Property (Jonathan Cape, 2013) 

The Property

The Property

 

  ルトゥ・モダンはアサフ・ハヌカと同じくイスラエル人の作家。本作は2014年のアイズナー賞(Best Graphic Album)を受賞しました。遺産相続のために孫娘ミカを連れてイスラエルから祖国ポーランドへ向かうレジーナ。しかし彼女の本当の目的は……というお話です。ユダヤ人であるレジーナと自立した独身女性ミカ。この2人の(正確にはレジーナの親から数えて4代に渡る)物語を紡ぎ出すストーリーテリングのうまさにはびっくり。去年読んだExit Woundsよりさらに巧みになっていました。例によってユーモアも健在。彼女の作品は結構追っていて、全作レビューしたいくらい好きなので全作レビューしたい。短篇もいいんですよ。

 

3. Alessandro Sanna, Pinocchio: The Origin Story (Enchanted Lion Books, 2016 

Pinocchio: The Origin Story

Pinocchio: The Origin Story

 

  イタリア人イラストレーター/コミックアーティストであるアレッサンドロ・サンナによる『ピノッキオの冒険』のオリジン。原ピノッキオの物語。こちらも「Comic Street」にレビューを書かせていただいたので、詳細はそちらで……

 

2. Jack Kirby, Jack Kirby's New Gods (DC Comics, 1998) 

Jack Kirby's New Gods

Jack Kirby's New Gods

 

  今年はジャック・カービーの生誕100周年でしたね。カービー作品は他にMister MiracleO.M.A.C、あとは『マイティ・ソーアスガルドの伝説』(小学館集英社プロダクション)くらいしか読んでいませんが、なかでは本作に度肝を抜かれました。これは白黒版なので度肝だけで済んだけれど、カラー版だったら何を抜かれることやら……

 

1. Marti Riera, The Cabbie (Catalan Communications, 1987) 

The Cabbie

The Cabbie

 
The Cabbie 1

The Cabbie 1

  • 作者: Marti,Kim Thompson,Art Spiegelman,Katie LaBarbera
  • 出版社/メーカー: Fantagraphics Books
  • 発売日: 2011/10/10
  • メディア: ハードカバー
  • この商品を含むブログを見る
 
The Cabbie 2

The Cabbie 2

 

  マルティ・リエラはスペインの作家。キャブ(タクシー)の運転手、キャビーがタクシー強盗を返り討ちにするも、このタクシー強盗がならず者一家の主だったことからキャビーの生活は悪夢へ変貌する……というお話なのですが、いやはや。大袈裟に言いますけど、シェイクスピアホドロフスキーを混ぜて、チェスター・グールドとヒルベルトエルナンデスで固めたような作品です。全コマTシャツにしたい。私が読んだのはCatalan Communications 版で、調べたところ現在絶版となっていますが、Fantagraphicsから新版が出ているようで、素晴らしい。と思ったのですが、Catalan Communications版はFantagraphics版の1巻に相当していて、Fantagraphics版では2巻が出版されており、そのくせ2巻だけ在庫がないという状況であることが判明して、今、動揺しています。

 

 今年は海外コミックス関連のイベントや展示に足を運ぶ機会が多く、そこで素晴らしい作品に出会うこともしばしばでした。楽しい時間をありがとうございました。来年はもっと多くの作品を読んで、レビューも書いていきたいと思います。あとフランス語も勉強したいし、宝くじとかも当てたいです。

 

 それでは良いお年を。

2016年ベスト10

 久々のエントリ…。

 

 2016年に読んだ海外コミックス(未訳)のベスト10です。

 

10Neil Gaiman, J.H. Williams III, The Sandman: Overture (Vertigo, 2015)

The Sandman: Overture

The Sandman: Overture

 

   幻想大河コミック『サンドマン』シリーズの終了後、約20年ぶりに出た新刊。私が購入したのはハードカバーのデラックス版だけど、リンクはソフトカバー(ペーパーバック)版になってます。お求めやすい。『サンドマン』は、私が一番好きなアメコミと言っても過言ではないし、邦訳が途切れていることから原書に手を出すきっかけとなったシリーズであると言っても過言ではない。大抵の褒め言葉が過言ではないと言っても過言ではないコミックスだろうと思う。とはいえ、本作は『サンドマン25周年企画として始まったファンサービスであって、また、シリーズの前日譚という設定からも推測されるように、それほどファンタスティックなストーリーが展開される訳ではない。しかしともかく、J・H・ウィリアムズⅢがストーリーに合わせて披露するアートの幅(無数のオマージュ)とコマ割の多様性が恐ろしい。『プロメテア』も超えていると思います。そもそも、カバーアートにマッキーンではなくウィリアムズⅢのイラストが使用されている時点でその内容への浸透度は推して知るべし、といったところではないでしょうか。

 

9Garth Ennis, William Simpson, John Constantine, Hellblazer Vol. 6: Bloodlines (Vertigo, 2013)

John Constantine, Hellblazer Vol. 6: Bloodlines

John Constantine, Hellblazer Vol. 6: Bloodlines

 

  『ヘルブレイザー』は新装版でぼちぼち読み進めています(新装版のカバーアートは好きではない)。メインライターがジェイミー・デラーノからガース・エニスに変わって、なんだかロンドンの霧が晴れてしまったような気がしていたんだけど、本作収録の'Lord of the Dance' (Hellblazer #49, 1992)を読んで、私の好きな『ヘルブレイザー』はきちんと継承されていたんだな、と嬉しくなった。これは“さかさま『クリスマス・キャロル』”とでも言うべきホリデー・スペシャルで、うらぶれた宴の神様をジョンが酒場に連れ込んでどんちゃん騒ぎをやるという素敵エピソードなんですけど、ジョンの優しさとダメ人間っぷりを見事に描いていてこれぞジョン。ザッツ・ジョン。

 

8. Alessandro Sanna, The River (Enchanted Lion Books, 2014) 

The River

The River

 

  ただただうっとりするような水彩画が続いている、だけではない、イタリア人アーティストによるサイレントなコミック。前のエントリで少し突っ込んでます。

 

7. Grant Morrison, Chris Burnham, Nameless (Image Comics, 2016) 

Nameless

Nameless

 

  今年知り合った方に教えていただいた作品。最高だった。ありがとうございました。モリソンが弾けている、素敵にチープなコズミックホラー。話がぶっ壊れる直前にゴールテープを切った、といった疾走感が堪らない。クリス・バーナムのちょっとエグいアートもマッチしすぎ。読者は感染するか、しないかの2種類に分かれる。そういう作品じゃないでしょうか。2017年2月にはお求めやすくなったペーパーバック版が出るようで、めでたい。

 

6. Hung Hung, Chihoi, The Train (Conundrum Press, 2014) 

The Train

The Train

 

 香港のアーティストChihoi (智海)が、台湾の作家Hung Hung (鴻鴻)の短篇小説を漫画化したモノクロ作品。コミックのあとに原作となった短篇が収録されているお得な仕様。人々が何年も乗り続け、生活を営んでいる長大な列車についての話で、コルタサルの「南部高速道路」やデュレンマットの「トンネル」を髣髴とさせる佳品。意識の流れ的に展開される原作と、コミックとの描写および内容の差異が面白くて、近々エントリを上げたいと思っています。それよりなにより、この表紙がズルい。

 

5. Farel Dalrymple, Pop Gun War Volume 1: Gift (Image Comics, 2016)

Pop Gun War: Gift

Pop Gun War: Gift

 

  自費出版をしたのち、2003年にはダークホースから、そして2016年にイメージから復刻されたもの。私はたぶん2003年頃に作者のサイトを発見して、そこで本作の冒頭のページのサンプルを見て瞬間的に熱狂したんだけど、そのまま本を買うこともなく、それどころか作者の名前すら忘れてしまい、時々絵を思い出しては悶々としていたら最近元気のあるイメージがこれを復刊するというものだから無事入手するに至りました。主人公の少年がニューヨーク的な都市を舞台に、『オズの不思議な魔法使い』もしくは『ピノッキオの冒険』的な奇怪な冒険を繰り広げる話。記憶にあった以上に素晴らしいアートと、最近児童文学を読み返すのが楽しいという個人的な事情とが相俟って、熱狂しました。2017年6月には続刊Pop Gun War: Chain Letterが出る模様。

 

4. David Prudhomme, Rebetiko (SelfMadeHero, 2013) 

Rebetiko (SelfMadeHero)

Rebetiko (SelfMadeHero)

 

 ダヴィッド・プリュドムというと、ルーヴルBDプロジェクトにも参加しているイカしたバンド・デシネ作家の一人で、『はじめての人のバンド・デシネ徹底ガイド』(玄光社2013年)にもちょろっと出てきますね。「レベティコ」とはある種のブルースで、その起源は、1923年、希土戦争に勝利したトルコが国民国家を強固にするために行った、住民の信仰に基づくギリシャとの住民交換にあるらしい。トルコのギリシャ正教徒とギリシャムスリムが交換され、ギリシャ正教徒たちがブズーキという管楽器を携えてギリシャへやって来た。彼らが奏で、歌ったのがレベティコであった――とのことです。本作の舞台は1930年代後半のギリシャアテネ。異国情緒あふれるレベティコは、メタクサス軍事政権下で、「国民意識を高揚するため」という大儀のもと演奏が禁じられる。そんななか、酔っ払いや阿片常用者の巣窟であるいかがわしい酒場で、今日も今日とてレベティコを奏でる男たちがいて、そんな彼らの1日が描かれる。近代史の混沌を閉じ込めたようなアテネの曇り空、通りの静けさ、酒場の沈鬱さを、プリュドムはシンプルかつ豊饒な線と色を駆使して描きだす。それが奇妙に美しいのは、レベティコ奏者たちのなけなしの反抗心とのコントラストのためだろうと私は思う。

 

3. Rutu Modan, Exit Wounds (Jonathan Cape, 2008)

Exit Wounds

Exit Wounds

 

  イスラエルのアーティストによる作品。2002年のテルアビブ。タクシーの運転手をしている青年Kobyはある日、疎遠になっていた父Gabrielがテロに巻き込まれて死んだかもしれないと聞かされ、情報提供者の女性Numiとともにその消息を追うが……という話。ルトゥ・モダンイスラエルActus Tragicusという5人組のアーティスト集団を組んでいて、私の知る範囲では、彼女がその一員として発表した短篇Panty Killer2001年)やThe Homecoming2002年)は、気の抜けたシュールな作品となっている。それが本作 Exit Woundsではガラリと趣を変えて(しかしオフビート感はしっかり残して)、シリアスな物語を展開していて、それでいてしっかり面白いから困る。イスラエル出身で初期にシュールな作品を発表していて、やがて政治への言及を行うようになった作家――というと、小説家のエトガル・ケレットが挙げられよう。などと無理やり関連付けるまでもなく、この2人は絵本『パパがサーカスと行っちゃった』(評論社、2005年)で共作しているんですね(正直、2人とも少し遠慮した感が否めないコラボレーションだったけれど)。エトガル・ケレットは近年邦訳に恵まれた作家なので、この勢いでルトゥ・モダンの邦訳を出すと、結構な数の人が幸せになるのではないかと思います。その際は岸本佐知子訳で河出書房新社から、というのが最高なんじゃないでしょうか。

 

2. Sergio Toppi, The Collector (Archaia, 2014) 

The Collector

The Collector

 

 泣く子も黙るイタリアの至宝、故セルジオ・トッピの代表作の一つ。19世紀末の世界各地を、「コレクター」として知られる謎の中年紳士が曰く付きの秘宝を探し求めてさすらう連作短篇集。ネイティブ・アメリカンの大酋長のパイプ、エチオピアの奥地にそびえるオベリスク15世紀ティムール朝の王が遺した宝石、中世アイルランドの王笏、そしてチベット密教の祖パドマサンバヴァの大腿骨でできたネックレス――どのブツも不思議な力やエピソードを持ち、コレクターはそうした神秘のために平然と命を賭ける。トッピの超絶技巧は、『シェヘラザード ~千夜一夜物語~』(小学館集英社プロダクション2013)にも増して冴えわたり、そのうえさらに癖のある登場人物たちが活躍するのだから言うことはない。頁をめくれば驚きが待っているし、頁を眺めていれば幸福がやって来ます。

 

1. Will Eisner, Jeph Loeb, Darwin Cooke, The Spirit - Anniversary Edition (DC Comics, 2015)

The Spirit - Anniversary Edition

The Spirit - Anniversary Edition

 

 レジェンドによるレジェンダリーな作品の75周年傑作選ということで、つまるところレジェンド・オブ・レジェンドな作品が詰まったレジェンド・オブ・レジェンド。とか言いつつ、『ザ・スピリット』を読むのはこれが初めてでした。ニール・ゲイマンが序文で、「『ザ・スピリット』はコミックの表現をやり尽くした」みたいなことを書いているけれど、確かにそう言わせるだけの、信じがたい多様性がある。舞台設定、ジャンル、コマワリを含めた形式、絵柄――本当に何でもありで、そして面白い。 どうかしてる。そう言えばゲイマンはThe Sandman: Overtureでも『ザ・スピリット』オマージュをやっていたね、というところで終わりたいと思います。

 

 良いお年を。

美しい季節たち――“The River”

 誰かへ贈りたくなるような美しい本というのは確かにある。例えばアレッサンドロ・サンナのコミック“The River”(Enchanted Lion Books)がそうだ。

 

The River

The River

 

 アレッサンドロ・サンナ(Alessandro Sanna、1975~)はイタリアのイラストレーター。“The River”は、イタリア北東部の低地地方に暮らしていたサンナが見た、ポー川の風景を元にした作品であるという。秋に始まり、季節ごとに章が立てられ、夏の終わりまでの1年間における河畔の様子と人々の生活が水彩で描かれる。セリフはない。全編を通して出てくる主人公もいない。コマ割は基本的に頁を3段か4段に区切っただけで、大きな変化はなく、定点観察のように淡々と時間が流れる。そして何より、どの頁もどのコマも美しい。(内容見本としては、以下が適切だろう)

www.brainpickings.org

 というだけでレビューを終えても良いだろうと思えるほどに眼福である本書はしかし、その叙情的な静けさとは裏腹に、アーティストの業の賛歌という側面を持っている。

 まず、冒頭に置かれた「秋」の章で描かれるのは洪水に翻弄される人々だ。雨の夕方に、自転車に乗った男が川沿いを行く。やがて雨が上がり、男は移動する人々や動物とすれ違う。どうやら川が氾濫したようだ。水をせき止めようとしているのか、道を修復しようとしているのか、何か作業をしている人々とも遭遇する。時には男もその作業に参加する。洪水の被害は大変なもので、一部の地域では家々の屋根から下があらかた冠水してしまった。夜が明け、日が暮れかけると再び雨が降り、さらに水位が上昇。水没した町の上空を一羽の鳥が悠々と飛んでいくのであった。

 あまりに甚大な被害、大きな災害で幕を開けた本書は、続く「冬」と「春」とで子牛の誕生や春の祝祭、あるカップルの結婚式の様子を描く。破壊と再生の帳尻を合わせようとしたかのようだ。そして最終章の「夏」へと向かう。

 夏。雷が落ち、大粒の雨が川岸に設置されたサーカスのテントを叩く。テントの近くに停められたトラックから、2人の男が1頭の虎を引っ張り出し、テントへ連れて行こうとする。夏の嵐の影響か、暴れ出した虎が逃げ出してしまう。川沿いの木立に身を潜めた虎は、偶然やってきた画家と顔を突きあわせる。カンバスを立て、木立を描いていた画家は動じずに作業を続け、やがて夜がくるとおとなしくなった虎を引き連れて家に帰った。画家は虎を描き続け、その作品群が評判を呼ぶことになる。

 川は人々の生活に豊かさをもたらす一方で、時に脅威と化す。サーカス(虎を含む)が川の隠喩であるのは明白だ。そして暴れ出した虎を画家が手懐け、作品化し、成功する。この画家の在り方は、洪水の様子をも美しく描き出したサンナ自身のそれと重なる。生活者にとってどれだけ恐ろしい光景であろうと、アーティストにとってそれは平和な「春」の陽気さと等しい美しさをもつのだ。いや、ことによるとカタストロフィというのはそれより一層美しいものであるのかもしれない(カバーに描かれた景色が、洪水に見舞われた「秋」のそれであることは示唆的である)。そのことをサンナは力強く肯定し、“The River”は実際に美しい作品になった。

十月のつめたい空――“Freaks of the Heartland”

 トレヴァーの弟ウィルは怪物じみた容姿と力を持つがゆえに、納屋に幽閉されている。トレヴァーは両親から距離を置かれているウィルの面倒を見ていたが、ある事件がきっかけとなり、兄弟を取り巻く環境は大きく変わってしまう。それと同時に兄弟は自身が暮らすアメリカ中西部の小さな町の秘密を知ることになり……

 

 アメリカのコミック“Freaks of the Heartlandのあらすじは、大体このようなものになるだろうか。2004年1月から隔月で発表された全6号のミニシリーズで、翌2005年に単行本が、そして2012年に豪華版が刊行された(私が持っているのは豪華版)。版元のダークホースコミックスは今年創立30周年を迎えたとのことで、めでたい。

 

Freaks of the Heartland

Freaks of the Heartland

 

 ストーリーを担当したスティーブ・ナイルズはホラーコミック界では有名らしい。例えば「30デイズ・オブ・ザ・ナイト」シリーズは映画化され、コミックの邦訳も出た。が、私はどちらも未見である。というのも私が“Freaks of the Heartlandを購入した目的はグレッグ・ルースの作画にあって、そして本作を一読した際にも実際、「絵は良いけどストーリーがあっけなくてものたりない」などという感想を抱いたものだ。かすれた水彩の見事さといったらないですよ。そういう訳でグレッグ・ルースの他の作品には手を伸ばしたりしていたのだが、先日ふと本作を読み返したらこれが存外に面白かったので、とにかくそのことを書いておこうと思った次第である。

 

 物語の舞台はグリッスルウッド・ヴァレー(Gristlewood Valley)と呼ばれている。Gristleは(料理用の肉に含まれる)軟骨やすじのこと。通常は食べられない部分だそうだ。本作はそんな不毛な名前をもつ土地を見下ろすショットから始まり、続けて、日が暮れるなか、黄金色と言うにはあまりに抑制されているとでも言うべき黄褐色の草原を横切る少年の姿が描かれる。そして当時を回想する語りが進む。語り手は草原を横切る少年その人で、大人になったトレヴァー・オーウェンである。見開きで示されるこの草原の場面は、構図においても色彩においてもアンドリュー・ワイエステンペラ画「クリスティーナの世界」を彷彿とさせる。クリスティーナとは違い、トレヴァーは力強く草原を走り抜けていかにも軽々と家へ向かっているが、ふと立ち止まり、悪漢を追い詰めた正義の味方めいたセリフを口にすると、虚空に向けておもちゃの銃を撃ち(口で発砲音を叫ぶだけだが)、少し間を開けると銃を下げ、溜息をつくことになる。溜息と同時に夕焼けが彼を照らす。小さく悪態をつくと、トレヴァーは銃を捨てて、再び帰り道を進む。

 家に着いた頃にはすっかり日が暮れていて、両親は既に夕食をとっている。父親のヘンリーが酒瓶を片手にトレヴァーをなじる。母親のマリオンは控えめにヘンリーをなだめるが、うつむきがちで、ヘンリーと目を合わせることはない。夕食を済ませたトレヴァーは父親から、弟に食事を出すよう言いつけられる。

 トレヴァーは家の裏手へ行き、無数のハエがたかる肥料とおぼしき何かをバケツに入れると納屋へ向かう。納屋では弟のウィルが待っている。ウィルは鎖のついた首輪をつけられ、幽閉されているためか、皮膚は青白い。6歳にしてはあまりしゃべるのが得意ではないらしいが、身長はトレヴァー(トレヴァーは10歳前後といったところ)の2倍近くあるようだ。ほとんど毛の生えていない、巨大でいびつな頭部もウィルの特徴である。

 ウィルがバケツに手を突っ込み食事をしているかたわらで、トレヴァーはその日の出来事を語る。街まで歩いて、そこで大きなトラックを見たこと。トラックはぴかぴかの新車で、その赤色が例えようのないほど鮮烈であったこと。谷の向こう側、山を越えた先には何があるのだろうか、等々。

 その後、トレヴァーとウィルがじゃれあっていると、ヘンリーがトレヴァーを呼び戻して、物語の導入部は終わる。

 

赤と青

 この段階で気に留めておきたいことがいくつかあるのだが、その前に、本作にはアメコミとしてはとても文章が少ないという特徴があることを言っておこう。一つ一つのコマも概して大きく、頁当たりの平均コマ数は5を切るだろう。そのためもあってか安直に「ストーリーが…」などと思ったかつての私に本作の面白さをこんこんと伝えたいというのが本稿の目論見の一つである。だから、物語の内容はもちろん、場合によっては結末にさえも平然と触れることになるだろう。

 

 さて、この導入部でまず決定されるのは物語のトーンである。暗く、淡い青味がかった色調の雄弁さが素晴らしい。それは回想という形式が、そしてトレヴァーの孤独が要請したものである。トレヴァーが一人でごっこ遊びをして、我に返るまでのつかの間の幸福が夕焼けの赤とともに過ぎ去ることは、だから必然だと言えるだろう。鬱屈とした青の世界にあって、それを打ち破るのは赤なのだ。中でも最も強烈な赤は、結果としてこの物語では一度も姿を見せない、市街地を走るトラックのそれだ。「熟した林檎ではとても追いつけないほど」に輝かしい赤。何に例えればよいのかもわからないほどの鮮やかな赤。当然のことながら、ぴかぴかのトラックに限らず、本作を展開させる要素(血と火)あるいは節目となる場面(2度訪れる夕暮れ)はすべて赤を基調としている。とはいえ、実際に描かれるこれらの赤が青の世界を刷新するほどの強度をもつことは決してない。それはこの物語が回想であることに由来する。物語は既に主人公によって経験されているのだから、その世界が今更どうして揺るがされるだろうか。

 

反復――銃、墓、鍵

 トレヴァーがおもちゃの銃を捨てる、と書いたが、それがある種の幼さとの訣別であることは言を俟たないとして、本作を読み進めた読者には、それがこの後、トレヴァーが本物の銃を手に入れることの予兆でもあったことが了解される。本作では他にも繰り返し現れることで象徴としての深みを増してゆくものがある。墓と鍵だ。

 おもちゃの銃を捨てたトレヴァーは歩を進め、丘に立つ一本の木のそばを通り過ぎる。その木の根元にいくつかの投げやりと言っていいほどに簡素な墓石の一群があるのだが、トレヴァーがそれを意識することはない。この墓については後で触れることになるのでここにこれ以上は書かない。ただ、その墓とトレヴァーの家とが少なくとも隣接するような位置関係にはないことが後に明らかになるにも関わらず、墓が描写されるこの頁をめくるとトレヴァーが家に到着するという演出がなされているは書いておこう。

 季節が10月であることは語り手によって明言されているが、日が暮れたといっても遠くがぼんやりと見える程度の暗さである。到着場面は見開きで描かれ、向かって右の頁のほとんどを家が占拠している。右奥から左手前に向かって斜めに構えた家はその両脇に木の柵を巡らせ、家から5メートルと離れずに佇むトレヴァーを待ち受けている。全体がモノクロに近い色調で、少年の表情をうかがうことはできない。1階の玄関脇の窓からは灯りの存在がうかがえるが、それに外部を照らすほどの余裕はない。それどころか、かすかにあたりを照らす月光を家が遮り、少年を闇の中に囲い込んでいる。この墓から家への移行、小さな墓と大きな家(大きな、というのは少年にとってということで、2階建てのこの家が特段巨大なわけではない)の対比は、両者に何か関係があることをそれとなく匂わせ、さらに家の不穏さを強調する良い演出だと思う。さらに言ってしまえば、この家は後々、ある意味で墓そのものと化すのである。

 そうして家に入ったトレヴァーは、食卓に着き、それから納屋へ向かうのだが、この2つの動きのなかで、壁にかけられた鍵が計3コマにわたって描写される。結論から言ってしまえばそれはウィルの首輪の鍵である。鍵は隠されたものの存在を意味すると同時に、それを解放するものでもある。秘密とその解放こそがこの物語の軸となる要素であり、このあと、解放という行為は何度も繰り返されることになる。

 

 というわけで、この物語の全体像は導入部においてあらかた語られてしまっているといっても過言ではないだろう。しかしそれゆえにこの後の展開が力を失うということはなくて、繰り返しによってむしろその力を増していくのである。展開があっけないというのはある意味あたりまえのことで、というのも本作は極めて古典的な骨格を有する物語であるために、読者を驚かせる類の展開をもちようがないのだ。本作はつまるところ、通過儀礼の物語、ゆきてかえりし物語なのである。

 

予行練習

 導入のあとには予行練習が行われる。つまり、トレヴァーがウィルを一時的に開放するのだ。両親がウィルの処遇について話し合っている夜、トレヴァーはウィルの首輪を外し、2人で策に囲まれた裏庭に出る。そこで追いかけっこやおどかしっこのようなたわいのない遊びをするのだが、白み始めた空の端を見ながら2人が交わす会話を見逃すわけにはいかない。

PRetty.”

YUP.”

not RED like truck.”

NO, NOT RED”

(p.35。小文字と大文字の入り乱れたセリフがウィルによるもの)

 そして頁をめくると赤みがかったビジョンがウィルを襲い、彼は叫びながらのたうつ。首をちぎられた豚、ライフルを撃つ大人、部屋の隅にうずくまる少女のような存在――などのビジョンである。そして引き金が引かれ、倒れた少女と流れる血が映し出される。心配するトレヴァーにウィルは答える。

red. Everywhere Red.” (p.39)

 翌日、トレヴァーはこれがその時実際に起こった出来事であると知る。カーヴァー家の娘――フリークの1人――が家畜の豚の首を裂いたことで、脅威を覚えた父親が彼女を手にかけたのだった。

 

本番

 ここでいう「本番」がどのようなものであるかについて、詳しく説明する必要はないだろう。

 ヘンリーはカーヴァー家の事件を受けてウィルにライフルを向ける。トレヴァーとウィルはヘンリーを返り討ちにし家を出る。2人はあてどなく歩き、木の下の墓の一群に近づく。7つある小さな墓の1つにはウィルの名が刻まれており、掘り起こすとぬいぐるみの人形が埋められていた。全ての墓を暴くと、ウィルのそれを含めて5つの人形と、そして2つの白骨死体が現れ、それを見たトレヴァーがあることを思い出す。

 ウィルが産まれた頃、近隣で6人のフリークが産まれていたのだ。そして大人たちは墓を作り、社会的にはフリーク達を死んだことにした(2人は実際に死んだ――あるいは殺された)のである。

 トレヴァーとウィルは残る3人の元へ向かうことにした。ウィルにはなんとも都合の良いことに、他のフリークの存在を感知する能力があったのである。

 兄弟はカーヴァ―家に火を点け、大人達が火事を処理している隙に仲間を救出する。手始めにクレイグ家でフリークのロイの救出に挑んだ際、ロイの妹(姉かもしれない)、マギーが合流。クレイグ家の青いピックアップを盗んだ一行はほかの2人を順調に開放し、合計6人の逃避行が始まる。

 やがて、子供達の失踪に気が付いた大人達が追跡を始めるだろう。

 

反復――6人の背中

 この逃避行において、私たちは1頁まるまるないし3分の2頁を占める大きなコマで、3度にわたりある構図を見せられることになる。それは、6人が私たちに背を向けて、横一列に並び、景色を眺めるというものである(ついでながら、彼らはいつのまにか青いピックアップを乗り捨てている。ぴかぴかの赤色でないピックアップには、6人を乗せてそのまま現実を打ち破ることができないのだ)。

 6人が合流してそうそう、私たちはこの構図を見ることになる。まだ日は暮れていない。彼らは小高い場所から自分たちの町を見下ろしている(かすかに見える煙はカーヴァ―家の火事によって生じたものだろう)。色づいた葉を持つ木の左側(読者にとって)にマギーとトレヴァーが、木の右側に他の4人が並んでいる。木をもって、いわば常人とフリークが分断されている――と読むこともできないではない。だが、次のコマではマギーが顔を右に向け、トレヴァーを見つめている。常人とフリークの違い(だけ)ではなく、マギーとトレヴァーの持つ意味が強調されているという読みが自然だろう。

 次の並びの構図は、日が暮れて薄墨色の暗闇があたりを覆うようになった頃に現れる。この頃には大人達も彼らがいないことに気付き、フリーク達がマギーとトレヴァーをさらって逃げたのだと考えて、探索を始めている。6人はとりあえず谷の向こうの市街地を目指し、丘を登る。そして谷の向こうの町を眼下に収める。それが第2の並びの場面となる。マギーとトレヴァーは中央で手をつなぎ、その左側にウィルとロイを含めた3人が、右側に1人が佇む。6人の関係性の変化が分かりやすく示されていると言えるだろう。彼らは市街地へ行ったことがなかったが、トレヴァーは母からその様子を聞いたことがあった。「光と色にあふれていて、色々な人がいる」と。しかし、ここでトレヴァーが目にしている町は、確かに様々な光で煌々と照らされてはいるものの、色調はモノクロに近く、新鮮さや力強さといった感覚を与えるものではない。「きれいだ」と彼らは感想を述べるものの、ウィルがすぐさま言う。「あそこも同じ」と。ウィルは直感したのだ。フリークは市街地へ行ってもフリークとして扱われると。トレヴァーもウィルに共感し、うなだれる。今更戻れないのに、どうすればいいのか。大人達は今にも追いつくだろう。

 トレヴァーが想像した通り、夜が明けたころ、大人達(捜索隊の一部)が6人に追いついた。捜索隊は保安官のタッカー(Tucker)と、マギーとロイの父親を含めた5人。捜索隊のジム(Jim)が発砲しながら子供達に近づいたが、自分の子供から返り討ちにあう。保安官があとに続こうとするも、マギーとロイの父が背後から保安官を撃つ。「おれの子供に銃を向けるな」と言って。そしてやはりと言うべきか、彼はマギーに向かって「帰ろう」と話す。マギーは反発し、6人はそのまま歩を進める。大人達は彼らを引き留める言葉を他に知らず、立ち尽くす。そうして3度目の並びの場面が回想の最後を形成することになる。逆光の中、真っ黒に塗りつぶされた6人が、当てもなくどこかへと向かう。日が昇り、色が取り戻されていてもおかしくないはずだが相変わらず彩度は低く、そこに希望を見出すことは容易ではない。だが、6人の並びを見ると、マギーとロイ、トレヴァーとウィルが隣あい、残りの2人が両端につくという、いわば常人/フリークの分離が薄れた並びになっていることが分かる。そこにあるいは希望があるのかもしれない。ともかくそうしてこの回想は終わる。

 

そして現在へ

 回想が終わり、本作の最後の3頁では現在のトレヴァーの様子が描かれる。彼は50歳を超えているように見える。10月の夜に自宅でくつろぐ彼の傍らには、マギーと思しき女性がいる。何十年か前の10月の冒険を思い出したトレヴァーは、「全ては起こるべくして起こったのだ」と考える。後悔をしている様子はない。そういえば、あの冒険はただ苦いばかりの思い出ではないのだと、彼は回想の初めに述べていたではないか。それは読者にとっても同様だろう。

 

(2016/9/4追記:この記事を書いた後で、スティーブ・ナイルズの他のコミックを少々読んだ。「30デイズ・オブ・ザ・ナイト」シリーズ(マイクロマガジン社)と“Monster & Madman”(IDW)である。どの作品も、「少ないセリフ」「シンプルながらひねりのあるプロット」という特徴をもっていて、要するに面白かった)